◆....意味不明な日記を残したまま、今年の日記はこれで打ち止めです。
いや、本日を持ってしばらく「らみや的裏日記・葉っぱと紅茶のある暮らし」は休業かもしれません。
次回作「続・葉っぱと紅茶のある暮らし」にてまたお会いしましょう。再開は2月頃を予定。....って、もー読者おらんかなこの日記。
★2000年の、20世紀の最後に、どうしても引用したい文章を載せて、締めくくろうと思います。
しばし、お付き合いのほどを。
「フロリド、おまえは、あの修道士の説教の中に、こんな一句があったのを覚えているだろうか。人間の一生は全て、如何によき死に方をするか、その一事のためにのみ存在すると。こういう彼の考えが、マルシリーノ・フィチーノやピコ・デッラ・ミランドラのようなフィレンツェ一流の知識人を、またフィレンツェ以外の多くの知識人層を、彼の心酔者にした原因らしい。
だが、私は、サヴォナローラの非難を浴びているこの私は、彼の言うことよりも、別の言葉が気に入ってしまっている。いにしえのユダヤ人の言ったという文句で、“生ける犬は、死せる獅子に優る”というのだ。
こうやってローマを一望の元に眺めていると、歴史の中に浮いたり沈んだりしている多くの人々の死が、ひどく身近なものに思えてくる。華々しく散った死、恨みを込めた死、使命感に燃えて自ら選んだ死、そんな死は、歴史の表面に浮かんでいる。
ちょうどおまえと同じ年齢だったとき、私は、一人の獅子の死に出会った。枢機卿時代は、洞察力の非常に鋭い教養人だったが、聖ペテロの座についた途端、その使命を感じすぎ、思いつめてしまったのだ。その結果、十字軍遠征を提唱したが失敗し、怒りと絶望のために狂ったようになり、死んだ。
彼の死は、私の考えを大きく変えた。それまでは私も、華々しい悲劇的な死に憧れていたものだ。しかし、今ではそうは考えていない。死は、求めてはならぬ。受けとめるべきものだと考えている。
人間には誰でも、一生のうちにやり遂げたいと思っていることが、何かあるものだ。私もまた、いくつかの事をやり遂げた上で死にたいと願っている。だが、もしその中途で、神が、おまえの生命は終ったと言われたとしたら、私は、やりかけている仕事をそのままにして、神のお召しに応じるだろう。仕事の未完成を嘆かず、そういう自分の運命も呪わずに。
だがそれまでは、犬のようにでも生きるつもりだ。私は、必ず訪れてくる死を常に考えているほど、自虐的には出来ていない。死が肩を叩いたときは、自分を彼の手に任せるだろう。しかし、それまでは生き続け、自分の仕事をやり続けていくつもりだ。
犬のように生きるのだから、“良き死”とか、どういう死に方をしようかなどということには心を使わない。例え、路傍で野垂れ死にしようとも、悪評の中に死のうとも、また、死後に後世の非難攻撃を受けようとも、私には少しも関係のないことなのだ。
大切なことは、決して焦ってはならないということだ。反対に危険なことは、自分のやっていることが無駄かもしれないとか、未完成に終わるかもしれないと思いだし、それではならないと考えた末、焦って思いつめてしまうことである。“死せる獅子”の多くは、こういう人々である。
サヴォナローラは、四十五歳だそうだが、あの年代が一番危険だ。おまえの年頃だと、やりたいことが山ほど在り、それらの整理がようやくついて、仕事が軌道に乗ってきだした頃だ。力に溢れている年頃だ。一方、私の年代ともなると、ふてぶてしいほどの覚悟が出来てくる。自分の仕事が無駄であろうとも、未完成に終わろうとも、それを恐れずに、残された時間を、それまでと同じ、自分に合った速度で使っていく心構えが出来てくるのだ。自分の仕事に疑いを持つことは、狂信的独善的になるのを防ぐに役立つから、かえって良いのだとさえ思ってくるのさ。
だが、サヴォナローラの年代は、焦りが最も強く出てくる頃だ。当然の事なのだが。だが、それを越えられる人もいるし、越えられない人もいる。
“生ける犬は、死せる獅子に優る”とは、なんと楽しい言葉ではないか。だが、こんなことを言った男は、おそらく歴史の底に沈んでいるのであろう。
フロリド、おまえならどちらを選ぶ。やはり死んでも獅子になりたいかな。」
─法王アレッサンドロ6世ロドリーゴ・ボルジア、1498年、68歳
法王秘書官の日誌より
....の口を借りた、作家塩野七生、1975年、38歳
著書「神の代理人」、アレッサンドロ六世とサヴォナローラ、より引用
◆この一年、自分の考えを動かした様々な書に出会いました。これはその1冊から。
それではみなさま、良いお年を。
Mental:-- Physical:-- (2000/12/31)