らみや的裏日記・葉っぱと紅茶のある暮らし
powered & connected by leaf & money.

スタイルシートを使っています。Internet Explorer 5.00以上でご覧ください。Netscape 4.5以上であれば閲覧は可能ですが、スタイルシートをサポートしてませんので。なお、ネスケ以外のブラウザをご利用でバグを見つけられた方はお手数ですがらみやまで御一報頂ければ幸いです。
→最新の日付(いっちゃん下)へ

→2000年11月の日記へ
→2001年1月の日記へ

なんか凝った日記書くから続かんのだと聞いた。確かにそうだ。
凝った日記は去年でやめ。日々思いついたこと書いてこ。
あとFool-Proof(防馬鹿装置)もやめたから、
例えば未来の日記読もうとしてもなんもないで。

★結局逃げ出すにもそれなりのエネルギーが必要なわけで、そういう意味でシンジ君はなかなか偉い。
そして自分には逃げ切るだけの肝はなかった。まぁ、彼にもなかったか。

前半月の日記はまた後ほどということで。
Mental:闇中妙穏 Physical:76 (2000/12/04)

◆現世復帰。
仕事も、学業も、何もかも、再開。....と都合よく行けばよいのだけど、ね。

久々に聞くガラスの塔のざわめきにほっとしたり。なかなかに人間不思議なもの。
久々に見る人々に「相変わらずかわいいなぁ」とか思ったり。人間所詮その程度。
★いきなり初日に鍋@えぎちゃん氏邸でまったりする。
なんかすごくほのぼのしたのは、鍋に投入したニンニク片とおじやに使ったピラフ用の米が醸し出した「おじやというよりはリゾット」な雰囲気からだけなのか。

浮かんだ言葉は「娑婆の味」(ぉぃ
Mental:混乱不穏 Physical:76 (2000/12/05)

◆ノートPCが壊れていると、ここまで日記を書く時間が失われるものなんだろうか....
細かいことは明日にでも書くかっ。早く帰ってこないかなぁ....ノート。
★366日目!@横浜。
Mental:睡硬惚平 Physical:78 (2000/12/06)

◆いかん....まったく日記が書けん....
如何に自分がノートPCで時間を捻り出していたかが良く分かる。

しかしそれ以上に、ノートPCを失うということは、自分の補助脳を失うに等しいことに気づき始めている今日この頃。 ....「まったくらみやも依存症のヲタクだなぁ」と呟きかけたそこのアナタ。それ程単純な話でも、触れなくて寂しいといったレベルの話でもないのですよ、これが。

特に初期からPC上でほとんどの仕事をこなしてきた自分にとって。自分が過去に書いたモノ、書いたメールを常に持ち歩き、参照できるということが、どれほど大きな意味を持っていたか。
さらに、直接自分宛ですらないメーリングリストのメールの中に、驚くほど貴重な「声」が存在し、それをいつでもどこでも見返すことで、その相手のアドバイスを受けているかのような効果が得られる、ということ。

紙のノートをどんなに綺麗にまとめても、5年分のノート全てを「今」の仕事に応用することなど不可能。だがそれが可能であることが「あたりまえ」になっていた....といえば分かって貰えるだろうか。

「ネットワークに接続できればいい端末」という発想はよくあるし、ある意味間違っていないとも思う。
だが、数年間に渡って「使い込んだ」ハードディスクは、もはや堂々と「知的執事」、いや「補助脳」と称してよい存在になっている気がする今日この頃。

........だからッ!早くノートPCを返して!IBM!!!(^^;;
Mental:欲意気凹 Physical:88 (2000/12/14)

★独善と屁理屈で塗り固め、言うに事欠いて、力のない相手に暴力を振るう。しかも恒常的に。

吐き気がする。

そのような人間が「娘の父親」と名乗っていること自体赦し難い。
猿ではないのだから殴らずに自分の台詞を通せないのかね? その他人間としての美徳が一つも見つからない、台詞が全て戯言である、なんて点も上記一点の前には霞む。

宜しい、我が腹は決まった。

おまえは俺の敵だ。不倶戴天の敵(トモニテンヲイダカザルテキ)と断定する。断絶から合法的殺人に至るまであらゆる手段をもって貴様に対することをここに宣言する。

人生一死渾て閑事、眥を裂き胸を穿つも汝を忘れざらん。
Mental:-- Physical:-- (2000/12/21)

◆....意味不明な日記を残したまま、今年の日記はこれで打ち止めです。
いや、本日を持ってしばらく「らみや的裏日記・葉っぱと紅茶のある暮らし」は休業かもしれません。

次回作「続・葉っぱと紅茶のある暮らし」にてまたお会いしましょう。再開は2月頃を予定。....って、もー読者おらんかなこの日記。
★2000年の、20世紀の最後に、どうしても引用したい文章を載せて、締めくくろうと思います。
しばし、お付き合いのほどを。

 「フロリド、おまえは、あの修道士の説教の中に、こんな一句があったのを覚えているだろうか。人間の一生は全て、如何によき死に方をするか、その一事のためにのみ存在すると。こういう彼の考えが、マルシリーノ・フィチーノやピコ・デッラ・ミランドラのようなフィレンツェ一流の知識人を、またフィレンツェ以外の多くの知識人層を、彼の心酔者にした原因らしい。
 だが、私は、サヴォナローラの非難を浴びているこの私は、彼の言うことよりも、別の言葉が気に入ってしまっている。いにしえのユダヤ人の言ったという文句で、“生ける犬は、死せる獅子に優る”というのだ。

 こうやってローマを一望の元に眺めていると、歴史の中に浮いたり沈んだりしている多くの人々の死が、ひどく身近なものに思えてくる。華々しく散った死、恨みを込めた死、使命感に燃えて自ら選んだ死、そんな死は、歴史の表面に浮かんでいる。
 ちょうどおまえと同じ年齢だったとき、私は、一人の獅子の死に出会った。枢機卿時代は、洞察力の非常に鋭い教養人だったが、聖ペテロの座についた途端、その使命を感じすぎ、思いつめてしまったのだ。その結果、十字軍遠征を提唱したが失敗し、怒りと絶望のために狂ったようになり、死んだ。
 彼の死は、私の考えを大きく変えた。それまでは私も、華々しい悲劇的な死に憧れていたものだ。しかし、今ではそうは考えていない。死は、求めてはならぬ。受けとめるべきものだと考えている。

 人間には誰でも、一生のうちにやり遂げたいと思っていることが、何かあるものだ。私もまた、いくつかの事をやり遂げた上で死にたいと願っている。だが、もしその中途で、神が、おまえの生命は終ったと言われたとしたら、私は、やりかけている仕事をそのままにして、神のお召しに応じるだろう。仕事の未完成を嘆かず、そういう自分の運命も呪わずに。

 だがそれまでは、犬のようにでも生きるつもりだ。私は、必ず訪れてくる死を常に考えているほど、自虐的には出来ていない。死が肩を叩いたときは、自分を彼の手に任せるだろう。しかし、それまでは生き続け、自分の仕事をやり続けていくつもりだ。
 犬のように生きるのだから、“良き死”とか、どういう死に方をしようかなどということには心を使わない。例え、路傍で野垂れ死にしようとも、悪評の中に死のうとも、また、死後に後世の非難攻撃を受けようとも、私には少しも関係のないことなのだ。

 大切なことは、決して焦ってはならないということだ。反対に危険なことは、自分のやっていることが無駄かもしれないとか、未完成に終わるかもしれないと思いだし、それではならないと考えた末、焦って思いつめてしまうことである。“死せる獅子”の多くは、こういう人々である。

 サヴォナローラは、四十五歳だそうだが、あの年代が一番危険だ。おまえの年頃だと、やりたいことが山ほど在り、それらの整理がようやくついて、仕事が軌道に乗ってきだした頃だ。力に溢れている年頃だ。一方、私の年代ともなると、ふてぶてしいほどの覚悟が出来てくる。自分の仕事が無駄であろうとも、未完成に終わろうとも、それを恐れずに、残された時間を、それまでと同じ、自分に合った速度で使っていく心構えが出来てくるのだ。自分の仕事に疑いを持つことは、狂信的独善的になるのを防ぐに役立つから、かえって良いのだとさえ思ってくるのさ。
 だが、サヴォナローラの年代は、焦りが最も強く出てくる頃だ。当然の事なのだが。だが、それを越えられる人もいるし、越えられない人もいる。

 “生ける犬は、死せる獅子に優る”とは、なんと楽しい言葉ではないか。だが、こんなことを言った男は、おそらく歴史の底に沈んでいるのであろう。

 フロリド、おまえならどちらを選ぶ。やはり死んでも獅子になりたいかな。」

─法王アレッサンドロ6世ロドリーゴ・ボルジア、1498年、68歳
法王秘書官の日誌より

....の口を借りた、作家塩野七生、1975年、38歳
著書「神の代理人」、アレッサンドロ六世とサヴォナローラ、より引用
◆この一年、自分の考えを動かした様々な書に出会いました。これはその1冊から。

それではみなさま、良いお年を。
Mental:-- Physical:-- (2000/12/31)

リンクは http://www.imasy.or.jp/~ramiya/urd/index.html へがお勧め。Thanks!
NetscapeでAntennaに「戻る」ときは下のリンクを使うか「2段戻り」してくれい。Peace!


─────────────→リンクとか。
→ページ最上段に戻る
→今月の日記に戻る
→日記リンクス「SFC Antenna」に行ってみる

→らみやの戯言へ(一方通行)
→トップページに戻る(一方通行)